<6>
―――そこは、古びた洋館の一室だった。
壁にかけてある風景画や、天井に吊り下げられたシャンデリア、
燭台や絨毯に至るまでがその年代を感じさせるかのごとく色がくすみ、薄汚れが目立つ。
薄暗い部屋をほのかに照らす燭台の明かりと暖炉が爆ぜる音、石の建物特有の冷んやりとした空気。
その見事なまでの質感の再現度に桐生はしばし見入っていた。
あらかじめ知らなければ、これが現実には存在しない電子情報の集合体などと誰が信じられようか。
赤い絨毯の敷き詰められたその部屋の中心には、
巨大な寝台がカーテンを半開きにした状態で置かれていたが、
マリーナの陰に隠れ桐生の位置からでは中の様子はうかがえない。
「ようこそハッカーさん」
寝台から声が響く。
聞き覚えのある声。
桐生は即座に声の主へと目を向ける。
寝台の奥に横たわる影。
その姿を視界に捕らえ、桐生は目を見張る。
――――そこにいたのは紛れもなく、あの白い少女であった。
「初めまして。ボクがマリーナです」
マリーナが寝台に横たわる少女に向けて挨拶する。
「あら…初めてじゃないわ。あなたはこれまでにも何度か私の部屋に来ていたはずよ」
「…知ってましたか」
ええとっくにね、そう言って少女は目を細めた。
「私の部屋にアクセスした人は皆チェックしてあるわ。
あの刑事さんに頼まれてあなたが探りを入れたことだってすぐに分かってた」
視線を向けられ、咄嗟に桐生は身構える。
少女はそれを意に介さず、再び視線をマリーナの方へと戻していく。
「あなたはそれ以前にも何回か私のことを観察しに来ていたわよね?」
「…確かに…流石ですね。でもあの頃は本当にただの興味本位だったんですよ。
あなたのことをどうこうしようなんて考えちゃいなかった」
二人の会話は穏やかでありながら、第三者の介入を許さない異様な緊迫感が漲っていた。
桐生は口を挟むことも出来ず、ただ固唾を飲んで見守るのみだ。
こいつが…真犯人…!
じゃあ、マリーナは……?
「彼らを…どうするつもりです?」
マリーナの問い掛けに対し一瞬の沈黙が流れる。
少女は微笑をたたえたまま表情を崩さない。
マリーナもまた、それを静かに見つめていた。
視線による会話が数分続いた後に少女が口を開き、もうご存知なのでしょう?と笑った。
「ひとりきりは寂しいものだわ」
「あなたは彼らも一緒に連れて行くつもりなんですね」
「そうよ。素敵でしょう?皆一緒に旅立つことが出来るのよ…」
…?
……?
連れて行く?
旅立つ?
……何処へ?
桐生には二人の会話の意図がよく呑み込めない。
一体…何の話をしているんだ?
「もう―――やめにしませんか」
「…?」
一瞬、少女の微笑に翳りが生じる。
「…これ以上やるのなら、あなた自身をネットから切り離さなければならなくなる。
ネットは体の自由が利かないあなたにとって唯一の世界。
それを失うことになっても、あなたは本当にいいんですか?」
マリーナは決して語気を荒げることなく、どこまでも優しげな声で少女に問いかける。
「優しいのね、ハッカーさん」
そう言うと、少女はより一層目を細めてマリーナを見た。
「…でも駄目。もう手遅れよ。彼らは私が死ぬと同時に覚醒し、そのまま自らの命を絶つことになる」
「何だと!」
桐生は思わず声を上げていた。
二人はそんな桐生には目もくれず、互いに交わした視線をはずさない。
甲斐は、病院のコンピュータールームから、
桐生に指示された通りにマリーナのアクセス経路を追う準備をしていた。
マリーナはウィルスの流出源に深く関わっており、動きを見張っていれば必ずそこへ辿り着く筈。
そこにアクセスしている者のアドレスを辿れば―――
現実での犯人の居場所も必ず判明するというのが桐生の見立てだった。
甲斐としては半信半疑ではあったが、
マリーナがウィルス事件に対し更なる情報を持っているという点については賛成だった。
ならばマリーナの動向を探ることは無駄にはなるまい。
彼のアカウントは出会った時に既に調べていたので、アクセス経路を辿ること自体は造作もなかった。
傍らに置いた携帯が鳴り、1コールだけで切れた。
桐生からの連絡だ。
最初の連絡があった際に打ち合わせていた通り、
桐生とマリーナのアクセス経路を辿り、彼らの現在地をチェックする。
20分程前に再度あった桐生からの連絡によれば、彼はこれからマリーナと行動を共にし、
ウィルス流出源と思われる場所に向かうことになったとのことだった。
目的地に着いた時点でそちらに1コールを入れる。
そこがすなわちウィルス発信に使用されているエリアだから、
そこを管理している人間を突き止めた上で、
しょっ引くなりワッパを掛けるなりどてっ腹に風穴を開けるなり好きにするように―――
そう一方的にまくしたてて電話は切れた。
その際、二人の居場所を調べるのは、
桐生の方から連絡があった時点で行うようにも指示されていた。
常時アクセス経路を追いかけていると、相手に感づかれる可能性が高いからだ。
前方の画面に捜査用に用いられるネット上の簡易地図が表示される。
確かに二人が同じ場所にアクセスしているのが確認できた。
二人がアクセスしている場所―――もう一人誰かいるようだけど―――この場所が…目的地?
「ここは…」
念のためもう一度確認する。
やっぱり…間違いない。
都内の…病院?
「ウソ…」
目的地。
『ホワイトアリス』の――――流出源は。
この病院の……サーバ内に…?
マリーナは左手に銃を出現させると、少女に向けてそれを構えた。
「これが最後の警告です。
今すぐウィルスの発信をやめ、昏睡状態の被害者達を解放して下さい。
さもなくば、こいつであなたをウィルスもろともネットから追放しなければならなくなる」
マリーナの眼は、言葉とは裏腹にどこまでも澄んでいて優しげだった。
しかし少女はその奥に、確固たる意志を感じていた。
脅しではない。
手に持つ銃は恐らく、狙撃した対象を強制的に電脳ネットからログアウトさせる強制排除プログラムだ。
同様の機構を持った銃を常備品として備え持っている桐生もまた、
即座にマリーナの本気の度合いを理解した。
少女は微笑をたたえた表情を崩さぬまま、マリーナから目を逸らさずにいたが、
不意に目を伏せて仕方ないわね、とだけ言った。
しかし―――それは降参の意ではなかった。
次の瞬間、少女は目を見開いて歪んだ笑顔を見せる。
「―――予定を早めることにするわ」
途端に病院内に警告音が響き渡った。
「何事だ!」
甲斐の傍らで技師が怒鳴る。
「院内のサーバに原因不明のエラーが出ています!」
コンピュータールーム内の操作画面はどれも真っ赤に点滅し、けたたましく警告音を鳴らしている。
「緊急停止の後、再起動!」
「だめです!受け付けません!」
「そんな馬鹿な…!」
技師達は必死に操作系統を動かしているが、全く応答は無いようだ。
甲斐は何かを察したように、急いで部屋を出る。
彼らは―――眠っている被害者達は――――?
病院内は鳴り響く警告音に異変を感じて病室から出てきた職員や患者達でごった返しており、
パニック状態に陥っていた。
口々に不平を騒ぎ立てて密集する人々を上手く避けながら、混雑した病棟の中を駆け抜ける。
階段を駆け上り、渡り廊下を抜けた先に、ベッドが密集して収容されているあの部屋が見えた。
急いで駆け寄ろうとしたその時――――甲斐は周囲の空気に奇妙な違和感を感じた。
あれほど混乱していた他の病棟に比べ、気味が悪いくらいにこの周囲は静まり返っている。
辺りを見回しても、人影が見えない。
病棟職員の姿も見当たらない。
一体、どうして…?
―――その時。 異様な静けさに包まれていた病棟に、少女の笑い声が聞こえてきた。
甲斐は声のする方へ歩を進める。
それは病棟の受付横に設置された、大型ディスプレイから聞こえていた。
周りに人影は見られない。
不審に思いながらも甲斐は画面の方へと目を移す――――
―――――ッ!
そこに映っていたのは――――
白い少女。
『ホワイトアリス』。
甲斐は反射的に飛びのいた拍子に、尻餅をついてしまう。
画面内で妖しく蠢く純白の少女は、甲斐と視線を合わせると一際高く笑い声を上げた。
病棟内に甲斐の悲鳴がこだまする。
少女の笑い声は段々とその音量を上げていき、
四方八方から響きわたる声によって病棟内にはエコーが掛かり出す。
甲斐は脇目も降らず、一息に奥の病室へと駆け出した。
甲斐が廊下を駆け抜けるまでの僅かな間に、
病院内の至る所に設置されたモニター画面は次々と起動していき、そこに少女の顔を映し出す。
病室。
ナースステーション。
談話室。
掲示板の脇。
ありとあらゆるモニター画面から白い少女が顔を覗かせ、不気味な笑い声を響かせていく。
彼らは…眠っている人達は無事?
病棟の廊下を走りぬけ、被害者達のベッドが並ぶ病室に辿り着いた甲斐は、
ガラス越しに患者達の姿を見た途端――――そのままその場に膝を突いてしまった。
「あ―――ああ――――」
病室内は外と同じくモニターを少女一色に染めていた。
だがそれよりも何よりも、甲斐が目を見張るべき光景がそこにはあった。
少女の笑い声が響き渡るその中で、甲斐はベッドに横たわった人々が、
ゆっくりとその体を起こし始めるのを目の当たりにしたのである。
昏睡状態であったはずの彼らの目が、再び光を取り戻そうと開きかけているのが見えた。
―――いや、違う。
そこには―――光などない。
目覚めた彼らの目は皆一様に濁っており、全く生気が感じられなかった。
まるで見えない手に操られているかのように、人々はゆっくりぎこちない動きで体を起こしていく。
そこに意志というものはまるで存在しない。
土中から蘇った死体のように、彼らはただ淡々と、死への行進の準備を進めていくのであった。
甲斐の頭上に位置するモニタに、それを祝うかのように微笑を浮かべた少女がその手を広げる。
それはまさに今、長き眠りから目覚めようとする彼らを、あちらへ迎え入れようとしている様にも見えた。
甲斐の胸元で、携帯がけたたましく呼び出し音を鳴らす。
ホワイトアリスによって眠らされていた――――
彼らが―――目を覚ます…!
「甲斐!甲斐!応答しろ!おい!」
桐生が画面に向かって怒鳴った。
「白い…白い少女が……画面に…」
「甲斐!状況を報告しろ!そっちは今、どうなっているんだ!」
「患者達が…被害者達が次々に目を覚ましています!こ…このままだと…」
…まずい。
このまま行けば、集団自殺にまっしぐらだ。
桐生は寝台の上の少女を睨みつける。
こいつ…!
病院内の患者を皆殺しにするつもりか?
少女は声を上げて笑った。勝ち誇ったような高らかな笑い声だった。
「少し早いけど…発動させて貰ったわ。
フフフ……もう何をしても手遅れよ。
私を撃ちたければ撃てばいいわ。
でも私をネット上から消したところで、もう彼等のマインドコントロールは絶対に解けはしない。
後数分で、日本中にいる私のウィルスに取り込まれた人々が全て目を覚ますわ。
そして彼らは――――自らの手でその命を絶つの」
「おい、マリーナァ!」
桐生が叫ぶ。
どうするつもりなんだ…
もう…もう手が無いぞ!
しかしマリーナの顔には、毛ほども動揺が見られない。
「大丈夫ですよ、刑事さん」
そう言うとマリーナは何故か構えていた銃を下ろし、反対の手に今度はスイッチを出現させた。
少女は怪訝な表情でそれを見つめる。
見詰め合う少年と少女。
その光景から、桐生は目を離さない。
それはマリーナの強い視線に、心なしか少女が気圧されているようにも見えた。
「あなたの気持ちは分かります。
でも――――これ以上あなたに、罪を重ねて欲しくないんです!」
マリーナはスイッチを目の前で構え、強く押し込んだ。
――――……
――――歌だ。
何処からか、歌が聞こえる。
透明感のある声が奏でる、どこか懐かしさを滲ませた歌だった。
甲斐は、いつしかその美しい歌声に無意識に耳を傾けていた。
先程まで病院中に響いていた耳障りな笑い声が、
まるでその歌にかき消されていくかのようにか細くなっていく。
モニター内で高笑いを上げていたはずのホワイトアリスの映像にも、歌声による変化が起きていた。
笑い声が収まるにつれて、画面上の少女達の動きはコマ送り再生のように鈍くなっていったのである。
画像は乱れていき、歪んだ表情は心なしか苦しそうに見えた。
それを加速させるかのように歌声はテンポを増し、どんどん大きくなっていく。
画面上の少女達もそれにつれて大きくその輪郭を歪ませ、それはもはや人の形を成していなかった。
ふと。
突然、何処かから甲高い泣き声が響き渡った。
それは水族館で聞いたことのある、海豚が啼く声に酷似していた。
その声を皮切りに、白い少女達が占拠していた病院のモニター画面内に、
無数の魚の群れがどっと殺到した。
魚群は病院中のモニターをどんどんと席巻し、縦横無尽に泳ぎ回る。
カメラ、映写機、モニタ、テレビジョン。
出現場所を選ばず、次から次へ姿を現す色とりどりの魚達。
甲斐は眼前に広がる不思議な光景に、しばし心を奪われた。
魚群に触れた画面上の少女達は皆、弾けるようにして画面から姿を消していく。
光沢の走るグラデーションパターンで彩られた無数の魚が、
虹色の帯となって病院内を流れていき、次々にホワイトアリスを消し去っていった。
甲斐は、再び先程の病室内に目を向ける。
虹色の帯は眠りから覚めた人々をも包み込むように照らしており、
病室内の患者達は揃ってそれに見入っていた。
やがてまだ眠っていた人達も徐々に目を覚まし始め、
虹色の光と美しい歌声の中で皆の目に生気が戻っていくのが見えた。
人々は意識を取り戻し、辺りを見回して口々に話し始める。
先程見た、異様な空気とは違う。
彼らがウィルスの呪縛から解放されたのが、はっきりと分かった光景だった。
……!
甲斐は安堵と疲労とで一遍に力が抜けてしまい、再び廊下に座り込む。
体中の震えが止まらない。
自分でも気付かぬ内に、頬には涙が伝っていた。
消え入りそうな声で、漸く喜びを露にする。
「…や………やった………………!」
病院中を覆いつくそうかという無数の魚の群れが、心地よいワルツを奏でる。
甲斐は薄れ行く意識の中、夢心地でそれに聞き入っていた。
少女は、驚愕の表情でマリーナに目をむいた。
「ど…どういう事…!」
「既にあなたのウィルスへの対抗策は完成していたということですよ。
ある人のお陰で、僕の手元にはあなたのウィルスプログラムのオリジナルデータがあった。
それを元にして、僕はアンチプログラムを作成したというわけです」
「な…何ですって!」
「僕のアンチプログラムによってあなたのウィルスはネットから完全に消滅し、
そのマインドコントロール効果も完全に打ち消されました。
―――もうあなたのウィルスで命を落とす人は一人もいない」
「そっ…そんなッ…!……そんな事って…!」
少女の顔は絶望に打ちひしがれ、青ざめていた。
その体は小刻みに震え、視線はうろうろと宙を泳ぐ。
「どうして……どうしてこんな……こんな――――」
何か言葉を紡ごうとしても、何も出てこない。
強い絶望感と喪失感とが伝わってきた。
あんまりだわ――――と少女は悲痛な叫び声を上げる。
少女は暫くの間突っ伏したまま肩を震わせて嗚咽を漏らしていたが、
やがてゆっくりと顔を上げ、少年を睨み付けて恨みがましい声でこう言った。
「何も…何も知らないくせに…!」
少女の声に熱がこもる。
「たった一人……他の誰にも悲しまれずに……
看取られることも無いまま死んでいく人間の辛さが、あなたに分かるっていうの?」
マリーナは何も答えず、黙って少女を見つめている。
その表情は寂しげではあったが、彼女を責めてもいなければ哀れんでいるわけでもない。
「分かるつもりです」
「何が分かるっていうのよ!」
少女は罵声を浴びせる。
それは、彼女が初めて見せる激情だった。
「誰も私のことを見ていない。
生きているか死んでいるかも気に掛けられることはない。
現実に生きる人達にとっては私の生死なんて、どうでもいいことなのよ!」
少女は髪を振り乱し、顔をしわくちゃにして、溢れ出る感情を抑えきれぬままにぶつけてきていた。
目の前の少年を微笑をたたえて悠然と迎え撃った、凛とした面影はそこにはもうない。
「あなたを気に掛けている人は、ずっと側にいたはずです」
「嘘!」
「嘘じゃありません。僕は…その人に頼まれてここにいる」
あなたの大切な人ですよ――――マリーナがそう言うと、少女は目を見開き突如沈黙する。
少女は、ゆっくりと少年の方に向き直った。
涙で赤く晴らした瞳は見開かれ、
驚きと不信感と期待が無い混ぜになったような不可思議な感情が映し出されていた。
嘘―――
そんな事――― そんな事あるわけない―――――
いいえ――――嘘じゃありません。
再び、視線での会話が交わされる。
マリーナは静かに口を開いた。
「滝沢和人。―――あなたのお兄さんです」
………
何だって?
今度は桐生が目を見張る。
滝沢…和人?
何故奴の名前がここで出る?
滝沢が…白い少女の――――兄?
じゃあ―――じゃあ―――ホワイトアリスの正体というのは――――
「…兄…さん……が……?…じゃあ…それじゃあ……」
お兄さんは最期まで、あなたのことを思ってました――――
マリーナの静かな、よく通る声が少女へと放たれる。
少女は目を見開いた驚愕の表情のまま、時間が止まったかのように微動だにしなかった。
やがて、少女の頬を幾筋もの涙が伝わっていくのが見えた。
「あ」
少女は両手で顔を覆い、俯いた。
その隙間から漏れ出る声が、やがて大きくなってくる。
「あ…はは…あはははははははははははは」
笑っていた。
肩を震わせ、涙を流しながら、少女は大声で笑い出した。
「あは…は。
馬鹿みたい。
馬鹿みたいだ、私……」
拭けども拭けども涙は止まる様子を見せない。
溢れ出る涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにしながら、少女は声を上げて笑った。
そんな彼女を複雑な思いで見つめていた桐生は、
やがて少女の外観に異変が起きていることに気付く。
少女を描き出している外形の輪郭線に、ノイズが走りはじめたのだ。
まるで壊れたテレビに映る画像のように少女の像は歪み、その姿は擦れていく。
少女自身もそれに気付いたのか、いつしか笑うのをやめてマリーナの方へ視線をやる。
「…残念ね。時間が来ちゃったみたい」
そう言うと少女は、初めて会ったときのように儚げな微笑を浮かべた。
「―――お別れね。会えて嬉しかったわ、ハッカーさん」
マリーナは答えを返さない。寂しげな表情のまま、少女を見つめて頷くのみだ。
「…最後に、握手してくれない?」
少女が言う。
マリーナは無言で手を差し出した。
差し出された手を包み込むように触れた白い手は、次の瞬間、融けるようにゆっくりと掻き消えていく。
桐生の傍らで呼び出し音が鳴る。甲斐からだ。
「先輩、大変です。彼女が――――、舞さんが―――――」
聞かずとも、何が起こったかもう分かっていた。
マリーナの背に目を向ける。後姿からは、表情の変化は窺い知れない。
砂が風で舞っていくような、そんな儚い光景を最後まで見届けた後も、
かつて少女の部屋であった空間に―――――少年はいつまでも佇んでいた。